国語の教員でしたが、アメリカで子育てをして、日本に帰国しました。

高校の国語科教員を退職し、長女が1歳の時に渡米し、2022年に帰国しました。3人目も無事出産しました。

【後編】バイオリン関係の個人的に気になるインスタグラマーさん、 ユーチューバーさん達と、私の恩師の話

 

nicota-in-us.hatenablog.com

 

前回↑からの続きです。

長くなってしまったので、忙しい方は最後の5行だけ読んでいただければと思います。

 

私のバイオリンの恩師

そのバイオリンの恩師とは、これまでの記事で何度か触れたことがある、私の二人目のバイオリンの先生です。それまでの「スズキ・メソード」の先生から、この先生にお世話になることになり、確か小1から3年生くらいまでは通ったと思います。(昔の小野アンナ音階教本を見たら、小1の冬から小3の冬まで通っていたことがわかりました。)

 

よって、私は10歳になる前にやめてしまったのですが、大学に入学し、なぜかまたバイオリンを始めてみようと思った時に再び先生の元を訪れる機会があり、その時に忘れられないお話をしていただいたのです。

 

 

その先生は、今はもうこの世にいらっしゃいません。数年前のことで、私の母よりもお若く、あまりに早すぎる出来事でした。

 

 

先生の輝かしいご生涯の中で、特別出来が悪かったであろう門下生がこの私です。その私が、奇しくも、先生が立派に育て上げられたバイオリニストのお子さんのことを前回ほんの少し綴らせていただきました。その本ブログの中で、ぜひとも先生との思い出も、少しだけ書かせていただきたいと思います。

 

先生は、当時の私にとってはとにかく厳しくて、「スズキ・メソード」で育った子どもにありがちな、「楽譜が読めない」「音程が甘い(←これは私個人の問題ですが、けっこうそういう傾向がある)」というところを徹底的に直そうとしてくださいました。それまでのスズキの教本に加えて、小野アンナの音階教本、カイザー、という王道の教本を加えて指導してくださいましたが、私にとってはこれらが苦痛で仕方ありませんでした。だって、お手本にするべきテープがないのです…(←スズキ生の限界)。ついでに我が家はフルタイムの共働き家庭だったため、親がついて毎日練習することができず、楽譜が読めないために曲が複雑になってくると自分一人で練習できないという問題を抱えており、練習せずにレッスンに行くこともしばしばありました…。(親ももうレッスンにはついて来なくなりました)

 

私にはその頃、というか長らく、「音程」の概念がなく、「高い!」「低い!」と言われてもその場では直すのですが、何が違うのか全くわかっていませんでした。一応ガイドとなる指の場所のシールが指板に貼ってあるのですが、1ミリ単位では自分で調節する必要があります。

 

スズキ式は何度も付属のテープ(時代を感じますね)を聴き、曲を覚え、楽譜は指番号を振ってそれを覚えて弾くだけなので、音符の読み方は習いません。今思えば「聴く」回数が少なすぎたのではないかと思うのですが、とにかくその頃はピアノのように指を覚えて弾けばいいと思っていたので、正しい指で押さえているのに「音が違う」と言われることの意味がわかりませんでした(バイオリン初心者あるある)。何度弾いても「違う」と言われるし、音程が悪いからまだビブラートは教えられない…と言われ、4巻に入ってもビブラートをさせてもらえませんでした。

 

曲の指導をするのに音名を理解する必要がある、とのことだったのでしょう。ある日突然音符の暗記カードを渡され、覚えるように言われました。これが「ドイツ音名」でした。学校で「ドレミファ…」を習う前に、ドイツ音名を覚えさせられたのです。これがいけませんでした。母は、「子どもはとにかく何でも覚える」と思っていたのでしょうか、体系立った説明をしてくれず、とにかく覚えるように言われたのです。

 

だから、私は「この辺のこの形の音はアー」のように漠然と覚えており、「アー」も何度か出てくるのでそれぞれ場所と形で覚えていました。0の開放弦で弾ける真ん中の方にある「アー」と、上の方に棒が一本刺さっている「アー」と下の方に棒が二本あって一本が刺さってる「アー」がある…。このように、とてもよくない覚え方をしていました。これに♯が付くと「アイス」♭が付くと「アス」…「アイス」だけはやたらと覚えていました(笑)。その当時、学校ではまだ習っていませんでしたが、イタリア語音名「ドレミ…」は何となくわかっていました。だから、「ド」は「ツェー」だよ、「レ」は「デー」だよ、とだれかが言ってくれればよかったのですが、基本過ぎて誰も気が付かなかったのでしょう。これらが1対1対応だと気がついたのは大学でオーケストラに入った後でした。(遅っ!)



一事が万事そんな調子で、私は先生の教室の中ではかなりの劣等生でした。4巻に入ってから全く進まなくなってしまい、自分より身体の小さな子達が次々とヴィヴァルディのコンチェルトを弾いていく…。口には出しませんでしたが、母のガッカリ感も伝わってきました。何とか5巻の何曲かを弾けるようになったところで、もう辞めたい、と母に申し出ました。もう身体が大きいのに簡単な曲を弾いていて下手だし…発表会のたびに劣等感を感じるし…。きちんと練習ができていないのに、先生のレッスンへ行くのが辛くて、ストレスから胃痛が起きるようになっていたのです。レッスンから泣いて帰ってきたことを今でも覚えています。(今思えば、先生の門下生のお子さん達のレベルが高すぎたんじゃないかと思います。もっと下手でも楽しくレッスンを続けられる環境だったら、自己肯定感も育ち、長続きしていたのかもしれません…。)

 

当時は、小学生だし暇だったので、練習すればよかっただけなんですよね。他に何かやりたいことがあったわけでもないし…。その時誰かが「Go practice!」と言ってくれていたらなあ。でも一人では音とれないし練習できなかったんですよね…。Youtubeがある時代に生まれたかった…。志のある人はレッスンを録音したり、録画するのでしょうか?

 

音楽自体は好きだったので、中学では音程とは無縁のパーカッションのパートを選びました(←ティンパニのチューニングで絶対必須なことに後で気づきました)。鍵盤楽器は苦手でした。今思えば、この時「数える」ことを徹底的に学びました。あと右手を鍛えられたのもバイオリンを弾くために良かったのではないかと思います。

 

高校では「音楽はもういいや」と美術部に入り、選択科目も美術、一時は美術の道を夢見たりもしました。高3になってから現実を知り、美術系大学の倍率の高さと試験の採点の不透明さに絶望し、進路に迷いました。美大は試験内容的には好きでしたが、絵に対するパッションが他の受験生は自分とは比べ物にならないことに気付いたのと、結局芸術は実力はもちろんのこととして、他にお金とコネクションがモノを言うような世界なんだということに気付き、諦めました。そして、「自分は勉強していない割には比較的国語が得意らしい」ということに気づいてからは、(単純過ぎますが)文学部を目指すようになりました。中2病の延長で日本の明治・大正文学が好きだったことも大きかったです。しかし、高3から始めた受験勉強では箸にも棒にも引っかからず、真面目に一浪して東京の第一志望校へ進学しました。この時の経験が、後に教職を志すきっかけになります。

 

大学では、何を思ったのかオーケストラサークルに入り、再び一からバイオリンをやり直すことに決めました。ここでようやく戻ってきたのです。バイオリンを辞めてから10年経っていました。私はフルサイズバイオリンに上がる前にやめてしまったので、我が家には先生経由で買った四分の三のサイズのオールドのバイオリンがまだ置いてありました。そこそこ良いお値段だったことから、これを先生に下取りをしてもらい、追加でいくらか払ってフルサイズの楽器を買おうということになり、大学1年の夏に再び先生の元を訪れることになったのです(それまでサークルの先輩の予備楽器を借りていました)。

 

先生は全くお変わりなく、にこやかに私達親子を迎えてくださいました。先生に「厳しい」というイメージがあり緊張していた私は、こんなに普通に話せる先生だったのかと、何だか拍子抜けしてしまいました。○○大学の文学部に通って、オーケストラサークルに入りましたと伝えると、自分のことのように喜んでくださいました。そして、こんな話をしてくださったのです。

 

私が小学2年生の時(先生は正確に覚えていらっしゃいました)、スズキの教本4巻、ザイツの協奏曲第5番第3楽章の中間部で短調になるところがあるのですが、「ここはどんな感じがする?」という先生の質問に、私が「夜中に公園でブランコが一つだけ揺れているような感じ」と答えたのだそうです。その時先生は本当にびっくりされたそうです。「小学2年生でそんなことを言うだろうかと思ったの」と。たいていの生徒さんは「悲しい感じ」とか「寂しい感じ」といった回答なのだそうです。だから、「この子には文才がある」と思ったのだそうです。今回文学部へ進んだときいて「やっぱり!」と感じたと、とても嬉しそうに話してくださいました。

 

その話をきいて、当時の私自身は正直、「そこまで言ってもらえるほどの才能は感じられない…普通の回答だと思うけれど…」と思ったものの、先生が出来の悪い生徒の私のことをそれだけはっきりと覚えていて下さったということは、そういう表現をした生徒は後にも先にもいなかったということなのでしょう。もしくは、全く音感も音楽的センスの欠片もない生徒からそのような表現が出てくるとは思わず、それでびっくりしたのか…。

 

言われて何となく思い出しました。先生は、私の言った言葉を楽譜に大きく書いてくださいました(実家に残っていました)。そして「ではそのように弾いてみてごらん」と、おっしゃったと思います。

 

先生は、本当にどうしようもない劣等生だった私を、音楽とは全く違う能力の面で、認めて下さっていたのです。そしてそれを、10年近くも覚えていて下さったのです。その事実に、胸が熱くなりました。そして、私の生きる道は音楽ではなくて、何か日本語に、言葉に、関わることだと教えて頂いた気がします。

 

私にとって、恩師と呼べる先生は3人います。そのうちの一人は、間違いなくこのバイオリンの先生です。薫陶を受けた期間は決して長くはありませんでしたが、今もこうやって音楽やバイオリンを楽しむ人生を送れているのは間違いなく先生のおかげです。そして私の娘にも、先生から教わったものは受け継がれています…。出来の悪い生徒で本当に申し訳ありませんでした。根気強く、教えてくださってありがとうございました。




※「バイオリンはじめちゃんねる」最新動画。「かな先生」が7歳でヴェラチーニの「ジーグ」を弾いています(爆速!)。私が辞める前に最後にちゃんと弾いた記憶のあるソロ曲がこれでした…。バッハのドッペルは挫折して結局通して弾いた覚えがありません…。(大人になってから最近練習してようやく弾けるようになりました)


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TwoSetの昔の動画カワイイ(笑)


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トップソリストの幼少時代…


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かてぃんさんの7歳と今


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かてぃんさんの10歳と今(←ショパン・コンクール)…(大感動)


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