国語の教員でしたが、アメリカで子育てをして、日本に帰国しました。

高校の国語科教員を退職し、長女が1歳の時に渡米し、2022年に帰国しました。3人目も無事出産しました。

アメリカの小学校と「アクティブ・ラーニング」

学校再開へ

ずっとお預け状態だった、我が学区ですが、ついに順次対面授業を開始するようです。本当に、今までずっとリモートのみでした。

対面も最初は半日だけで、残り半日はリモートとなるようです。しかし、我が家は諸事情により9月までフルリモートを選択しました。とりあえず今年度中は、フルリモートのオプションが選択できます。

今日は、長女が昨年の9月に一年生になってから、半年以上、オンライン授業の様子を見てきた中で考えたことを書きたいと思います(キンダーは週一回しかオンラインがなかったし、ほとんど顔を見せるだけでした)。コロナのおかげで、初めてアメリカの小学校の授業というものをまじまじと見ることができたのです。私にとっては不幸中の幸いでした。なかなか長期間観察するということはできないですから。

 

アメリカ小1の授業の正直な感想

大丈夫なのこれで?というのが正直な感想でした。何というか…思っていたのとだいぶ違ったのです。最初のうちは、「リモートに慣れるまでこんな感じなのかな」と思っていたのですが、そのまま軌道に乗ってしまいました。何だか、どうも授業っぽくないんです。悪くいうとグダグダな時間が多い。これ授業やってるの?という感じなのです。でも、こう思うこと自体が、自分が知らず知らずのうちに日本の型にはまってしまっていたのだということを、後に思い知らされました。

 

ジュンさんの動画

Hapa英会話のジュンさんの最近のYoutube動画で、日本の学校アメリカの学校の違いを説明していました↓。これを見たときに、「そうか!」と。話には聞いていても、実際に目の当たりにするとそのカルチャーショックは想像以上でした。特に、私自身が教員だったことも大きいと思います。

 

日本語学校アメリカンスクールの違い

 

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私の感じていた違和感

娘の授業を見て私が感じていた違和感は、「授業なのに説明が少ない(無い)」ということでした。先生が説明しているような時間がほとんど無いのです。考えてみれば、その代わりに、生徒が書く、発表する、説明する時間が多かったのです。もちろん生徒はそもそも一年生ですし、みんな素晴らしくできるわけではありません。だから、何か「グダグダ」な感じが出てしまったのではないかと思います。私が「授業」として考えていたものとは全く違った「授業」があったのです。そもそも、「授業」という言葉自体が、教えを「授ける」「授かる」という一方通行の受け身の考え方を表しています。思えばアメリカの小学校では、娘も先生も「授業」らしき言葉は全く使っていないのです。「meeting」もしくは「group」でした。音楽や芸術、体育などのスペシャリストの授業は「class」と呼んでいましたが。

 

例えば算数の時間。1年生だと、20くらいまでの数字の繰り上がりの足し算も出てきます。でも、先生は、計算の仕方を教えることはほぼなかったです。代わりに、毎週月曜日に、「計算して○になる数の組み合わせは何?」と生徒達に考えさせて、時間内に5つの式をノートに書かせて、一人一つずつ発表させていました。その際、なぜそう考えるのか、どうしたら正しいことが確認できるかの説明もさせていました。それで一日の算数の時間が終わりです。

はじめの頃は「5」とか簡単な数から始まって、毎週少しずつ数が増えていって、気付いたらこの間「28」まで増えていました。

このやり方は、(30年も前の)私なんかが受けてきたような日本的な算数教育の「早く正確に計算して答えを出す」という目的を達成するには相当非効率的なやり方だと思います。だから私は「これで大丈夫なの?」と思ってしまったのです。でも、アメリカの算数の目的が「早く正確に計算して答えを出す」ではなかったとしたら。計算して正しい答えを出すことを目指しているわけではないとしたら。そう考えた時に、自分の視野の狭さを痛感しました。そして、自分が人としても、教員としても、いかに型にはまった人間だったのかを思い知らされました。

一つではない答えを、それぞれが自分の頭を使って考えて、人に発表する。自分はどう考えてその答えを出したのか、どうしてそれが正しいと考えるのかを説明する。そういうことを、トレーニングしているのが娘の先生のやり方であり、これから日本でも当たり前になる「アクティブラーニング」なのだと思いました。効率は悪いんですよ。学力も一時的にはがくっと落ちるかもしれません。それでもこっちに舵を切らないといけない理由があるんですよね。日本も明治以来の「授業」スタイルがようやく変わりつつあるのだと思います。

私が感銘を受けたのは、ちょうど19の数の時でした。うちの娘が意気揚々と「2×9+1」と答えたのです。娘は家庭学習で掛け算も学習していました。でも、学校ではまだ習っていないし、わからない子もいるでしょう。私はキッチンの端で聞きながらとっさに「あ、そんなこと発表して、先生に注意される!」と思いました。ところが、先生は注意するわけでもなく、かといって褒めるわけでもなく、「それをどうやって説明する?」と質問しました。うちの娘は「2×9は18だから、それに1を足したら19になる」というようなことを答えていました。先生は 「2×9が18になるのをどうやって説明する?」と更に質問しました。娘はその時「そう覚えたから」と答えていました(笑)。そこで先生がして下さった説明は、「2×9は nine groups of two と考えるんだよ」と、2つずつ囲まれたマルを9つ描いてくれて、その丸の数を数えてくれました。「確かに、18になるね、それに1を足したら19になるね」。それからは、数が増えていくにしたがって、掛け算の入った式を他の子たちも発表するようになったのです。

どうして私は「先生に注意される」と思ったのでしょう。子ども達のことを本当に考えて教育していたら、注意する意味は無いはずです。書くまでもないことですが、これには自分自身が幼少期に受けてきた教育が影響していることは想像に難くありません。学校で習っていないことを言ったり、できたりすると、先生は嫌な顔するんですよね。今はどうなんでしょうか。アメリカの教育、この時ちょっと感銘を受けました。 

忘れられないエピソード

アメリカに来たばかりの頃です。当時は長女がまだ1歳で、義務教育なんてまだまだ、という時期でした。私は教員を退職したばかりで、初めての子どもを抱えて得意でもない英語での生活。かなり焦っていました。アメリカの学校のことを調べれば調べるほど、不安になっていました。アメリカでは日本のように静かに生徒が座っていないとか、授業中も物を食べているとか、教員は板書をしないし、生徒もノートをとらないとか、とにかく私が教員として本能的に恐れてしまう事態が普通なようなのです。ある種の職業病だったんだろうなと思うのですが、自分の子がそういうふうになってしまうかもしれないと考えただけで怖くなってしまったのです。

そこで、夫に相談しました。「うちの子が、授業も静かに座って聞けないような子になったらどうしよう…。」すると、夫は当然のようにこう言ったのです。

「大事な時に何も言えないような子になるよりはいいんじゃないか。」

 

……!

 

夫はアメリカで仕事をしているから、ひしひしと感じていたのでしょう。自分の意見や考えを求められた時に何も言わないのは、その人が存在していないのと同じだとされる文化を。

アメリカでは会議の時に後ろにドーナツとか置いてあって、皆立ち歩き、食べたり飲んだりしながら会議をするのだというのをどこかで読んだことがあります。その代わり、ちゃんと話を聞いているし、意見をしっかりと言う必要があるんです。黙って座っているだけでは意味がないし、やる気が無いと思われてしまうのです。

学校の授業も同じで、参加しないと意味が無いのです。もちろん先生や誰かが話している時は話している人の方を向いて私語はしない、ということはプリスクールから習ってくるので日米同じだと思うのですが。それと同じくらいに、先生の質問には自分の頭で考えて答える必要があって、その答えも一つに決まっているようなものじゃないのです。

 

型にはめる教育

授業中は静かに座って、先生の話を聞き、板書をノートに写す。当たり前だと思っていたことが、全く当たり前ではなかったということが予想以上にショックでした。そして、自分は、日本で、いかに生徒達を「型にはめる」教育をしてきたんだろうとまたショックを受けました。でも、日本で生きていく以上は、この「型」は必要なものです。日本社会では、会議中に黙って座っていられないなんて、ありえません。でもその「型」を身につけているかどうかだけにとらわれ過ぎていたような気がします。表面的なことの指導に情熱を持っていかれてた気がします。

静かに授業をきいて、しっかりきれいにノートもとっていて、定期テストは答え丸暗記で乗り切りほぼ満点、定期テストはよくできるけれど、範囲の無い実力テストや模試などではあまり点数が取れない、そんな悩みを抱えている生徒が勤務校ではたくさんいました。多分、教員も保護者も、そして本人さえも気づいていないのですが、そんな「勉強するフリ」をする「型」を日本で身につけてしまったのです。頭でほとんど何も考えていなくても、「勉強するフリ」だけはできてしまうんです。そして、それだけでもなんとなく評価されてしまうんです。日本社会では「型」が必要なこともあるのですが、それとは別に、自分の頭を使って考えて、それが正当に評価される場面ももっとあるといいですね(評価する側からするととても煩雑で時間がかかるのですが)。

少し話はずれますが、国語の観点からいうと、日本も大学入試では必ず「小論文」を課せばいいと思います(記述であれだけ大反対されたから、実現は難しいとは思うのですが)。

 

「国語の一つの正しい答え」

余談ですが、ジュンさんの動画にあったような、日本の学校の「先生が欲している答え」を答えさせようとする状態は、どうして生じてしまうのでしょうか。国語に関していうと、それはおそらく、教員が指導書ありきで授業を組み立ててしまうからです。国語の教科書の指導書は、私の個人的な意見では、はっきりいってあまり役に立たないというか、書いてあることをそのままやって授業として成立させるのは、教員と生徒両方よほどの力量がないとできません。少なくとも自分の愛する勤務校では絶対に無理でした。(クラス全員寝るのが必至)

教員の欲している答えがなかなか出てこないというときは、だいたい教員の「発問」が悪いのです。なぜそうなってしまうかというと、指導書ありきで授業をやっているからです。指導書には、「いやその発問でここまで答え出てこないでしょ」という発問例と答えがわんさか書いてあります。ではなぜそのような指導書ありきになってしまうかというと、国語の教科書を使って何を教えたらいいのか、教員自身もよく分かっていないからなのです。特に小学校の先生は、オールラウンドに何でも教えるので、他教科に比べて国語にかける情熱って、、、少ないと思いませんか。そう感じるのは私だけでしょうか。国語の存在感って、希薄ですよね。日本国外だとまた違うのかもしれませんけれど。読解の授業って「何答えたらいいのかわからない」と感じることが多かったです、自分の小中高の経験からいっても。そういう時は、おそらく先生も「何教えたらいいのかよくわかっていない」可能性があります。

でも、国語という教科は、授業中に生徒との対話が楽しめるというところが教員として何よりの魅力なんです。客観的な問題はもちろん答えの方向性が一つに決まっていきますが、それとは別に「あなたならどう考えますか」という質問ができる楽しい教科なのです。指導書に書いてあるような答えを求めるのではなくて、子ども達が自分の頭を使って「考えるのが楽しい」と思うような授業を、教員は創意工夫する必要があるし、そうあってほしいです。