「かながわ音楽コンクール」の本選を見学してきました(バイオリン部門)
この間、「かながわ音楽コンクール」の本選を見学してきました。
長女が、アメリカにいた頃から「コンクール(competition )」とか、「検定」とか、「オリンピック(!)」とかいったものに興味を示しており、「金のメダルかカップが欲しい!」とずっと言っていたのです…。親友だったお友達が体操のコンペティションでカップもらってたのが羨ましかったみたいです。
長女には、そんな実力があるものが何もないし、何するにしてもいちいち遠出しないといけないし、英語でどうしたらよいのかも全くわからないので二の足を踏んでいたのですが、日本へやって来てから少しやる気が出てきました(私の)。
英検や漢検は、確かメダルやトロフィーがもらえるわけじゃないし…。唯一ずっと続けているものといえば、バイオリンのみ…。それでも厳しい世界というのは十分理解しています…。
ちなみに、漢検は10級から受けていこうと思っています。英検は、まだ精神年齢が達していないように思うので、時期がきたら4級あたりから受けていこうかなと思います。
いろいろ調べたところ、「かながわ音楽コンクール」の本選が、明日、あるらしい!と気づき、小学1,2年生の部の課題曲がちょうど今取り組んでいるザイツの2番だったこともあり、行けない場所でもないので、野次馬として見学してくることにしました。ちなみに、私自身はバイオリンのコンクールは未経験で無縁の人生でした。中学の時のブラスバンドと、教員時代の副顧問だった合唱部でのNコン参加(毎回予選落ち)くらいです。(どうでもいいですが、N コンも金賞受賞して全国行くような高校はどこも超進学校だったり音楽高校で、難解な現代曲を自由曲に持ってくるんですよね…)
かながわ音楽コンクールといえば、全国レベルのコンクールではない(のかな?)とはいえ、「かな先生」がこの動画↓で「レベル高い」と、おっしゃっていたコンクール…。(先生は今休養中とのことですが、ゆっくり休んで回復されることを祈っています!)
↑この動画内で、自分のレベルの見極め方として「課題曲」を指標にする、とあったので、課題曲が今取り組んでいる曲なら、「全く無理、ということもないのでは!?」という淡い思いを抱きました。(後から思い返してみると、全くトンチンカンな考えでした!)
次女はというと、全くバイオリンに興味がわかず、今回も見学を断固拒否…!なので、ひさしぶりに長女と二人でお出かけでした。長女は前日からとっても楽しみにしていて、ワクワクルンルンでした。
始まってみると、さすが本選でした。
5,6歳の「幼児の部」は、鈴木の1,2巻から任意の曲…というのが課題曲でしたが、「この子達、絶対もう4,5巻とかそれ以上の曲弾いてるわ」というのがありありとわかり、ビブラートやスピッカート、ポジション移動を堂々と見せつけてくれました!ブラボー!!
同じようなことは1,2年生の部にもいえて、よりその傾向が顕著でした…。
「かなコン」は、「技巧より感性」が合言葉らしいのですが、「技巧なくして感性の表現は不可能!」との思いを新たにしました。ましてやその感性のみを「評価」することは不可能です。紀貫之が在原業平を「その心あまりて詞(ことば)足らず」と評したように、有り余る感性に技術が追いつかない…そういうところをコンクールで評価することは難しいと思います。だから、その感性を技術によって表現しなければなりません。
おそらくこのコンクールは、課題曲を易し目に設定することで、参加者の裾野を広げ、収入源となる参加費を少しでも集めたいところなんでしょう。やたら高難度な曲を弾く参加者ばかりが入賞するような事態は避けたいということもあるのでしょうか。でも結局入賞するのは、高難度な曲を弾いているような参加者なんですよね…残念ながら。
たとえ本選に出られるのは一握りの人達だとしても、予選で敗退するたくさんの人達の参加費でコンクールは成り立っているはずです。3度目のホール演奏となる本選の開催費用は、1,2度の予選で去ったあまたの参加者の参加費から成り立っている…。でも、たった一度のコンクール予選にでも、それに向けて努力したことや、講評から得られる子ども達の成長は、何ものにも代え難いはず…。
自分の子が出ているわけではないのに、なぜかそんな風に思いを馳せてしまいました。
さて、総勢5名のprodigyの皆さんのザイツの2番を聴かせていただきました!もうすごかったです。長女も大興奮!今回、楽譜持参で聴いたら、とっても勉強になり、長女の意欲もアップしました!
最近のTwoSetの動画に、世界中から授業料無料で才能をかき集めるという「カーティス音楽院」への入試チャレンジとレッスンの動画がありましたね!
(ところで、アメリカの大学や大学入試に関する記事をずっと書いていますので、いつか公開したいなと思っています!)
↑この動画でのEddyの受けたレッスンにあるように、コンチェルトのソロの出だしの強弱記号は何か、というのは意外と盲点な気がします。ザイツの2番は… p (ピアノ)です。とはいえ、オケ時代に、「コンチェルトのソロは pでも ff で弾き、オケ は ff でも p で弾かないといけない」というアドヴァイザーの先生の言葉も思い出しましたが。(役割の問題の話だと思います)
とにかく、私はてっきり出だしは f だと思い込んでおりました!そして、 p で表現した出場者は1名だけだったような気がします。その出場者の方は譜面に忠実な上に表現力も豊かで、音色も美しくて、私は現時点でまだ結果を知らないのですが、おそらく1位だったんじゃないかと思います。(結果は、当日の会場以外では、神奈川新聞紙上で結果発表とのことで、まだオンラインで公表されていません)
当日は、3,4年生の部まで見学して、会場を後にしました。長女は、中学生の部や高校生の部のチャイコフスキーが聴きたい!(←大好きな曲なのに生で聴いたことがないので)と譲らなかったのですが、今回は時間の関係で断念しました。また何かチャンスがあったら聴きに行きたいと思います。そして、「高校生くらいまでにチャイコフスキーのコンチェルトを弾けるようになりたい!」という目標ができたようです。(どうしたらいいんだろ…?とりあえず、高学年でブルッフやモーツァルトのコンチェルトが弾けないといけないようです汗)
コンクールや、これからのバイオリンとの付き合い方は、長い目で見ると進路にも関係してきます。ただ今絶賛五里霧中です!自分の考えをまとめるためにも、近々記事にしたいと思っています。
最後のレッスンが終わりました。
日本へ移動してから、毎日充実しすぎています。
とりあえず、長女のバイオリンです。先日、最後のレッスンが終わりました。
3歳8ヶ月でアメリカで初めて出会ったJ先生との、最後のレッスンでした。(実際にレッスンを受け始めたのは3歳10ヶ月頃)
先生は、この夏に手術を受けられるとのことでした。詳しいことはどうせ英語できいてもわからないので、あえてきかなかったのですが、数年前に一度倒れられていたので、きっとそれも何か関係しているのだろうと思います。先生は、鈴木慎一先生のセミナーを受けに、30年以上も前にはるばる海を渡って松本までやって来られ、その時の写真(鈴木先生とのツーショット)をずっと楽器ケースに入れていらっしゃいます。もうけっこうなお年ではあると思うのですが、長身ではつらつとした、わかりやすい英語を話して下さる先生です。きっとまたすぐ回復されることは疑いません。
日本へ帰国してから、実に4回もオンラインレッスンをしていただきました。授業料が四半期ごとの納入だったために、支払い済みの授業料でできる限りレッスンしていただけました。日本へ来てから、生活をするだけで忙しく、正直言って宿題を全てはこなせていませんでしたが、4巻のザイツのコンチェルト第2番へ少し入っていたので、時間いっぱいまで教えていただきました。
日本の先生はどうしようか…悩んでいる途中でしたが、とりあえず鈴木の教室の先生に会いに行ったことをお伝えしました。J先生は、「読譜(reading)の教材をやっていることは話した?」とおっしゃいました。私がそのことについては話していないと伝えると、「読譜の練習は続けるようにぜひお願いしてね。◯◯(長女)は良いreaderだから、続けたほうがいいわ。日本の鈴木の先生は読譜を教えないときくけれど」という感じのことをおっしゃっていました。内心「その通り…!」と思いました。
でも実際のところ、見学した感じだと、「それは難しそうだな…」と思いました。それくらい、ガチガチの支部のお教室でした。決して悪い印象はないのですが、そこに他の教材を持ち込む余地は無さそうだったのです。アメリカの教室は、一応スズキ式を謳ってはいるのですが、正式な加盟教室ではないようです。あのロゴも使っていませんし。ただ、地元の有力日系人のご子弟が複数通われており(驚)、何となく安心感がありました。(先生に日本人はいません)
アメリカの先生のレッスンもついに終わってしまったので、これから本格的に日本の先生を探さなくては…と焦っております…。長女がまさかのコンクールに興味を示していることもあり…先日とあるコンクールの本選を見学したところ、驚愕の連続だったとかいったネタは豊富にあるので、また書きたいと思っています。
長女のこれからのバイオリンに関しては、現在進行系でいろいろなところを見学していますので、今後必ずご報告したいと思います!
日本へ引っ越しました。
昨年末から、私にしてはハイペースで更新していた当ブログですが、気付けばしばらくお休みしておりました。
この間に何があったかといいますと、実は我が家は、アメリカの生活を終了し、日本へ本帰国いたしました。
感覚としては、タイトルに書いた通り、「日本へ引っ越した」という感覚です。
日本へ帰って来たわけですが、これまで住んだ場所でもなく、それぞれの実家でもない土地で、新たな生活を始めることにしました。正確に言うと、夫は若い頃住んだことがある土地で、家族で住んでみたいとずっと言っていた場所でもあります。私にとっては観光地でしかない土地です。
アメリカでは、家を買って落ち着いてしまっていたので、それを全て精算して引っ越すのは予想通り大変でした。もう、本当に、毎日血を吐きそうでした。シャワーを浴びられたのは3日に1回がいいところ、気づいたら1週間過ぎていた…ということもありました。汚い話で申し訳ないですが…。子ども達にも相当いろんなことを我慢してもらいました。
したがって、ブログをはじめ、SNSも更新は最小限にして、ひたすらリアルの生活に集中してきました。
日本へ帰らないといけない、と決まってから、怒涛の日々を越えて、ようやく日本で1週間が過ぎ、落ち着きつつあります。あまりに急で、アメリカでは帰国前の旅行も、おみやげを買い集めるような時間も、お金も、ありませんでした。
長女の学校がゴールデンウィーク明けから始まりますが、まずはそこから始めていきます。次女、三女…?と、それぞれ、将来を考えつつ、生活を安定させていこうと思います。
アメリカじゃなくて、日本なので、なんでもだいたい私一人でできるし、役所の人も何言ってるのか100%理解できることに感動しつつ、毎日を送っています。
今回の本帰国の際のポイントは、
こんな感じでしょうか。
面白い記事が書けるかどうかわかりませんが、時間ができたら書いていきたいと思います。
これからは、「国語の教員でしたが、アメリカで子育てをして、日本へ帰国しました。」というタイトルで、よろしくお願いします。子ども達は、英語を忘れてしまうのか!?バイリンガル育成はどうなる?バイオリンはどうするの?…ご期待ください…!
TwoSet も今ゴールデンウィーク中のようで?ほっとしています(笑)。
「ユークレーン」はどこの国
前回の投稿↑ に、私のアメリカ生活を描く妄想上の著作物の目次の一つとして、「ユークレーンってどこの国?」というのを書きました。
その投稿の実に2日後、ロシアがウクライナへ軍事侵攻しました。特に世界情勢に注視していたわけでもないのですが…虫が知らせたのでしょうか。
そうです、ご存知かと思いますが、「ユークレーン(Ukraine)」はウクライナのことです。英語だとそういう発音になります。知らなかったのは、何を隠そうこの私です。この二年半、ずっと胸にひっかかっていた出来事があったのです。
パンデミックになる前、まだ次女のプリスクールで、屋内でハロウィンパーティーができていた頃、親も参加型のそのパーティーの帰りに、初めて会話をしたママが、ヨーロッパの「ユークレーン」出身だと言っていたのです。
次女がようやく秋からプリスクールに通い始めて、ハロウィンは初めてのイベントでした。そのママは、少しシャイな感じがしましたが、帰る方向が同じだったので思い切って声をかけてみたのです。
初対面の人と話すのはやっぱりまだ緊張しましたが、そのママは気さくに話してくれました。そして、「ユークレーン」から来たのだと教えてくれたのです。そのママは、これからお仕事なのかな?というくらい、この辺りを歩くにしてはきっちりとした格好をしていました。日本のビジネスカジュアルくらいですが、「服」を着ていないことが多いアメリカ人の中では少し浮き出て見えました。
最初国名が全く聞き取れず、何度かきき直したのですが、どうしても「ユークレーン」という国名に心当たりがありません。正直、とっても焦りました。そのママは、「ヨーロッパの国で、ロシアやポーランド(色々な国を列挙してくれました)と隣の国よ」と説明してくれました。
旧東側諸国なのはわかったのですが、リヒテンシュタイン公国のように小さな国があるのかもしれない…世界地理に疎く、苦手意識のある私は思考停止してしまい、わかったようなわからないような反応をしてお茶を濁してしまいました。
そもそも初対面の人と苦手な英会話をするだけで緊張して冷静に考えられなかったとはいえ、ヨーロッパにある国がわからなかったなんて恥ずかしい…。全く無知なヤツめと思われたに違いない…。
家に帰ってよくよく考えてみたら、「ユークレーン」て、「Y」から始まると思っていたけれど、「U」から始まるのでは、と思い立ち(遅すぎですが)、「そうか!Ukrane!ウクライナだ!」と、やっと気がついたのです。
このように、いくつかの国名は英語で言い慣れていないとなかなかパッと出てこないものがあります。「オランダ」や「ドイツ」をすぐに英語で言えるあなたはかなりの上級者です。私はかつて「ドイツ(Germany)」がすぐに英語で出てこなくて、苦し紛れに「ドイチェ(Deutsche)」と言って笑われたことがあります…。(ちなみにオランダはNetherlandsですよね…)あと中国の人名や昔の国名も中国語読みをするので難しいのです…。「孔子」とか、英語で言えないと知らないのと同じことになってしまうんですよね…。
このように、国名にまつわる話をあれこれ書くことを妄想していたのですが、事態は急変しました。そして、あのママを思い出しました。あの後、私達は日本へ一時帰国して1ヶ月近くプリスクールへは行かなかったし、帰ってきた頃に新型コロナウィルスが流行の兆しが見えて、当時クラスで唯一アジア人だった次女は、何か嫌な思いをしないためにも念の為プリスクールを休んでいました。そしてやって来たパンデミック。学年もクラスも変わり、あの親子にその後会うことはなかったのです。
あのファミリーは、まだこの辺りに住んでいるのだろうか…。今のニュースを、どんな気持ちで受け止めているだろうか…。家族は大丈夫だろうか…。考えても言葉になりません。
そして…今現在、長女が小学校で最も仲良しのお友達は、両親ともロシア出身なのです。毎日のように立ち話をするのですが、どうもそのことには触れてほしくなさそうなのです。ただ、子どもを通じて、あなた達の家族のことを心配しているよ、と伝えました。そのご家庭は、今回の戦争に関しては肯定的な意見を持っている可能性もあると思われるので、我が家としてはどうしたらいいのか…。少なくとも今回のことを議論できる立場ではないなと思うのです。
今回の軍事侵攻について、そういえば佐藤優氏はどのように考えているのだろうかと記事を探したところ、オンラインではこれまでにこのような記事が見つかりました。↓
佐藤優氏については、かの鈴木宗男氏と同時に逮捕された方ですので、様々なご意見があるかとは思いますが、私自身は、随分昔になりますが、彼の著作『国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて』と、『自壊する帝国』を読んで、それまであまり読んでこなかったノンフィクションの分野の面白さにハマりました。そして、まあどこまで本当のことを書いているかは定かではありませんが、「ロシアといったらこの人」という印象を、以来ずっと持っています。
私は彼の本で「インテリジェンス(情報)」の世界というのを垣間見たのですが、要するに、わかりやすい言葉で言うと「スパイ」の世界です。ただ、映画のようにドンパチしたり、レーダーをかいくぐって忍び込む…というのではありません。彼が言うには、必要な情報の99%は公開されている、のだそうです。膨大な、公開されている情報から必要な情報を見つけ出し、利用する…。現実にこんな世界が存在するんだなあ…と平和ボケした頭に衝撃をくらいました。
そんな佐藤さんは、我が家では「すごいよ優(マサル)さん」の愛称で親しまれています。(主に夫が言っているだけですが)
優さんは、その後もビジネス書等も含めて多数本を書いているので、注目している人は多いと思います。今回の戦争の分析についてもやっぱり「この人にしか書けないものを書いているな」という気がします。この人にしかできない分析で、非常に明晰で、冷徹で、わかりやすいといえばわかりやすいです。そして、「インテリジェンスオフィサー」としての、プーチン大統領に対する畏敬の念を感じます。良い悪いは別として、佐藤氏にはプーチン大統領の見ているものが見えているのでしょうね…。
アメリカの現政権の専門家が未熟で下手を打っている、というのも当たっているのでしょう。先のアフガニスタンの大失敗もありましたし、恐ろしいです。
プーチン大統領の狙いは、決してロシアの言いなりになる傀儡政権をウクライナに築くことではなくて、あくまで反ロシアとしてウクライナ国民に支持されながらもロシアと折り合いをつけられる指導者の出現を待っている、ということなのだそうです。
7日付の一番下の記事では、戦局は今や終局に近付き、ロシアはもう「戦後処理」を学習し始めている、と述べています。ドイツや日本に対して行われたような戦後処理を学び、二度とウクライナがロシアに楯突くことのない国家に教育し、改造する…。
ここからは私の妄想です。ここまで大きな被害と犠牲者が出たのも、戦局を読み誤った上層部のせい。大国に対して勝ち目のない戦争をし続けたのは「戦犯」のせいとして失脚させ(優さんはゼレンスキー大統領はNATO同盟国へ亡命すると読んでいます)、二度と戦争をしない平和国家を築く…。要するに、アメリカが日本に対して行ったことが、ウクライナでも行われるということなのでしょうか。この戦争の犠牲者は、平和国家を築くための尊い犠牲…?
納得してしまいそうになるけれど、ふざけるな、と言いたい。そういうやり方は通用しない、21世紀であってほしい。
佐藤氏の言う通り、本当にプーチン大統領の思い通りに動いていってしまうのでしょうか。21世紀に、そんなことがまかり通ってしまっていいのでしょうか…。21世紀は、インターネットによって「個」が力を持った時代だと私は信じています。だから、本当に小さい声でしかないけれど、声を上げます。イデオロギーが人命より優先されない世界になってほしい。リーダーは話し合いで解決する資質を持ってほしい。理不尽な暴力の先に未来はない。
真偽はさておき、とても面白かったです↓
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』を読みました。
久々に海外在住ブログらしいことを書こうかなと思います。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』を読みました。続編です。これにて完結とのこと。ちょっとあっけないけれど、「子育て」の終わりはこのようにあっけなくやって来るのだと、筆者と共に少し切なく感じました。
あっけないと書いてしまいましたが、日本で普通に生活していたら考えられないような出来事が次々と起こる、みかこさんの身の回りです。十分ドラマティックではあります。イギリスの、労働者階級としてたくましく生きる筆者一家の鋭い感受性に、読めば読むほど胸を打たれます。息子さんが、いいんですよね…。本当にアシタカじゃないけれど、「曇りなき眼(まなこ)」とはこういうことなんだろうなという、そういう眼で見た世界に対して、ハっとすることをいつも言ってくれるんです。
元々、前作の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を知ったのは、日本在住のブロガーさんの記事でした。その後、在米日本人の何人もの方がこの本について記事にされていて、私も手にとってみたのです。読んでみて、この本が日本で流行っているということが、とても意外に思われました。「日本の人は、こういうのを読んで面白いのだろうか?」と。
この、『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』というのは、みかこさんのお子さんがノートに走り書きしていた言葉です。日本人的な感性でちょっと聞いただけだと、何だかオシャレでポップな雰囲気がしますが、これは、人種のことなのです。
この本には、よく筆者の住環境のことが出てくるのですが、全く同じとはいえないまでも、実は、我が家の周辺の状況と似ているところがあるのです。だから、この本は私にとって「あるある」がいっぱい詰まった本なのです。
我が家がある地区は、市内でも古くからある地区であり、開発が遅れている地域でもあります。ビーチや、古くからの名所はあるのですが、私達が居を構えた4年ほど前までは、何ともいえない独特の雰囲気がありました。
何というか、新しく渡米してきたようなアジア系住民はあまり好んで住まない感じでした。小さな日本人ママ友コミュニティもありますが、アメリカ人の旦那さんの地縁があるという人が多い印象です。私たちのような新参の日本人夫婦はかなり珍しいです(というか唯一です)。全体的に白人の住民が目立ち、夫婦共にアジア系、東南アジア系の住民は、以前はほとんどみられませんでした。高級住宅街もありますが、私達が住んでいる地域は、長く住んでいる労働者階級の白人が多いようでした。あからさまなものから、目にはみえないものまで、やはり差別を感じることがよくありました。一つ一つは書ききれないのです。
どうしてそこを住居に選んだかというと、ひとえに今後の伸びしろと、コストパフォーマンスの高さからでした。値段と、手に入る物件と通勤距離との兼ね合いで見た時に、その当時、一番良かったところだったのです。同じ頃に近くに引っ越してきたような新規住民は、夫婦共働きで知的労働に従事しているようなエリートカップルもいました。アジア系の住民も近年増えてきました。まさに、みかこさんのいうような「まだら模様」の住宅街になりつつあるのです。
私達の住む地区から一本大きな道路を隔てたところに、更に低所得者向けのカラフルな住宅が立ち並んでいます。そこへ行くと、完全に住んでいる人の人種が変わります。要するに、アフリカ系の住民がたくさん住んでいる地区になります。その多くは、戦後や、もっと最近、移民として来た人達なのかなという印象を受けました。色鮮やかなイスラム教徒の長い衣服を身につけた女性達をよく見かけるからです。その地区の中に、ボランティアや寄付で運営されている市民センターのようなところがあり、そこで無料のESL(英語クラス)を開催していたので、引っ越した最初の頃に通っていました。生徒は7割アフリカ系、3割中東系で、例外的に一人が日本人の私でした。このESLはいろいろな意味で学ぶことが多く、私は大好きだったのですが、子ども達をその間預かってもらう必要があり、子ども達がそれを嫌がったため、あまり長くは続けられませんでした。
私達の住む地域の更に南側へいくと、すぐに市の境界があり、別の市になります。この市がまた特に治安が悪く、車で通るだけで「ここはヤバい」と肌で感じることができます。ダウンタウンも相当悪化してしまいましたが、ここは「元々ヤバい」というところのようです。トランプ政権になってから、白人至上主義の集会が行われたのもこの市でした。
更に南下したところにある市などは、住民一人あたりの犯罪発生率が全米最悪(当時)と言われる市があったりと…この5年間でそういう話だったらいくらでもできるようになりました。大麻の匂いもすぐに感知できるようになりました。治安と大麻の匂いは関連しています。(我が州では21歳以上のアメリカ人は合法です)
そういう環境で生活していると、いろいろと麻痺してくるのですが、客観的にみると本当にすごいところで生活しているなと我ながら思います。発砲音とかいつものことですし、本当にいつも車で通るところや近所で銃の事件があり、死者も出ています(全てがいちいち大きなニュースにはなりません)。そういう地域密着の事件やニュースは、地域のニュースブログがあって、元々プロのマスコミだった人が運営しています。地域のスモールビジネスがスポンサーになっていて、地域に何かあるとすぐに取材してくれて、大変助かっています。
一番最近の犯罪系のニュースは「カー・ジャック」でした。車道の真ん中に犬を連れた男が立っていたので、通りがかった人が車を止めて助けが必要か尋ねたところ、銃を突きつけて車を奪って逃げた、という事件です。怖すぎますが、怪我人が出ていないので全くニュースにもならない事件です。でも、このような犯罪にはなかなかお目にかからない日本人として、「簡単に車から出てはいけない」という教訓を得ました。銃を持った人と向き合ってしまったら、何なら怪我をさせてでも、アクセルを踏んで逃げなければならない、と。そういうことを日常的に考えている、日常です。
このような物騒な話ばかりではないのですが、こうやってこの地区に住んで生活を続けていく中で、ここに住んでいなければ体験できなかったことが色々とあるなあ…と思い返しています。
ブレイディみかこさんのように、身近に起きた個人的な出来事を政治や社会情勢にまで帰納していく考察力が私には全く無いのですが、もしそんなことができるとしたら、私のアメリカ生活を書いた本は以下のような目次になるかな、と思います。果たして面白いのかどうかは別として…。
- 日本語を拒否するマリー
- シリアからやって来たママ
- 長女の転校
- パッケージ泥棒
- 続・パッケージ泥棒
- 続続・パッケージ泥棒
- 四軒隣のドラッグハウス
- 公園にある違法薬物の注射器用ゴミ箱
- 隣人1はパーティピーポー
- 斜向かいのトランプ支持者
- 隣人2の置き土産
- 新しき隣人
- 娘の親友はママ二人のゲイカップル
- 哀しきBBQ
- 「ユークレーン」ってどこの国?
- 意識高いリベラルママ達のfacebook
- 日本語を話す子ども同士のトラブル
- 剥ぎ取られたBLM、塗りつぶされたストリートアート
- 南アフリカにプリスクールの姉妹校を建てた校長の話
- 超リベラル市長の末路
- 新しい市長の誕生、新しい時代がやって来るか?
【後編】バイオリン関係の個人的に気になるインスタグラマーさん、 ユーチューバーさん達と、私の恩師の話
前回↑からの続きです。
長くなってしまったので、忙しい方は最後の5行だけ読んでいただければと思います。
私のバイオリンの恩師
そのバイオリンの恩師とは、これまでの記事で何度か触れたことがある、私の二人目のバイオリンの先生です。それまでの「スズキ・メソード」の先生から、この先生にお世話になることになり、確か小1から3年生くらいまでは通ったと思います。(昔の小野アンナ音階教本を見たら、小1の冬から小3の冬まで通っていたことがわかりました。)
よって、私は10歳になる前にやめてしまったのですが、大学に入学し、なぜかまたバイオリンを始めてみようと思った時に再び先生の元を訪れる機会があり、その時に忘れられないお話をしていただいたのです。
その先生は、今はもうこの世にいらっしゃいません。数年前のことで、私の母よりもお若く、あまりに早すぎる出来事でした。
先生の輝かしいご生涯の中で、特別出来が悪かったであろう門下生がこの私です。その私が、奇しくも、先生が立派に育て上げられたバイオリニストのお子さんのことを前回ほんの少し綴らせていただきました。その本ブログの中で、ぜひとも先生との思い出も、少しだけ書かせていただきたいと思います。
先生は、当時の私にとってはとにかく厳しくて、「スズキ・メソード」で育った子どもにありがちな、「楽譜が読めない」「音程が甘い(←これは私個人の問題ですが、けっこうそういう傾向がある)」というところを徹底的に直そうとしてくださいました。それまでのスズキの教本に加えて、小野アンナの音階教本、カイザー、という王道の教本を加えて指導してくださいましたが、私にとってはこれらが苦痛で仕方ありませんでした。だって、お手本にするべきテープがないのです…(←スズキ生の限界)。ついでに我が家はフルタイムの共働き家庭だったため、親がついて毎日練習することができず、楽譜が読めないために曲が複雑になってくると自分一人で練習できないという問題を抱えており、練習せずにレッスンに行くこともしばしばありました…。(親ももうレッスンにはついて来なくなりました)
私にはその頃、というか長らく、「音程」の概念がなく、「高い!」「低い!」と言われてもその場では直すのですが、何が違うのか全くわかっていませんでした。一応ガイドとなる指の場所のシールが指板に貼ってあるのですが、1ミリ単位では自分で調節する必要があります。
スズキ式は何度も付属のテープ(時代を感じますね)を聴き、曲を覚え、楽譜は指番号を振ってそれを覚えて弾くだけなので、音符の読み方は習いません。今思えば「聴く」回数が少なすぎたのではないかと思うのですが、とにかくその頃はピアノのように指を覚えて弾けばいいと思っていたので、正しい指で押さえているのに「音が違う」と言われることの意味がわかりませんでした(バイオリン初心者あるある)。何度弾いても「違う」と言われるし、音程が悪いからまだビブラートは教えられない…と言われ、4巻に入ってもビブラートをさせてもらえませんでした。
曲の指導をするのに音名を理解する必要がある、とのことだったのでしょう。ある日突然音符の暗記カードを渡され、覚えるように言われました。これが「ドイツ音名」でした。学校で「ドレミファ…」を習う前に、ドイツ音名を覚えさせられたのです。これがいけませんでした。母は、「子どもはとにかく何でも覚える」と思っていたのでしょうか、体系立った説明をしてくれず、とにかく覚えるように言われたのです。
だから、私は「この辺のこの形の音はアー」のように漠然と覚えており、「アー」も何度か出てくるのでそれぞれ場所と形で覚えていました。0の開放弦で弾ける真ん中の方にある「アー」と、上の方に棒が一本刺さっている「アー」と下の方に棒が二本あって一本が刺さってる「アー」がある…。このように、とてもよくない覚え方をしていました。これに♯が付くと「アイス」♭が付くと「アス」…「アイス」だけはやたらと覚えていました(笑)。その当時、学校ではまだ習っていませんでしたが、イタリア語音名「ドレミ…」は何となくわかっていました。だから、「ド」は「ツェー」だよ、「レ」は「デー」だよ、とだれかが言ってくれればよかったのですが、基本過ぎて誰も気が付かなかったのでしょう。これらが1対1対応だと気がついたのは大学でオーケストラに入った後でした。(遅っ!)
一事が万事そんな調子で、私は先生の教室の中ではかなりの劣等生でした。4巻に入ってから全く進まなくなってしまい、自分より身体の小さな子達が次々とヴィヴァルディのコンチェルトを弾いていく…。口には出しませんでしたが、母のガッカリ感も伝わってきました。何とか5巻の何曲かを弾けるようになったところで、もう辞めたい、と母に申し出ました。もう身体が大きいのに簡単な曲を弾いていて下手だし…発表会のたびに劣等感を感じるし…。きちんと練習ができていないのに、先生のレッスンへ行くのが辛くて、ストレスから胃痛が起きるようになっていたのです。レッスンから泣いて帰ってきたことを今でも覚えています。(今思えば、先生の門下生のお子さん達のレベルが高すぎたんじゃないかと思います。もっと下手でも楽しくレッスンを続けられる環境だったら、自己肯定感も育ち、長続きしていたのかもしれません…。)
当時は、小学生だし暇だったので、練習すればよかっただけなんですよね。他に何かやりたいことがあったわけでもないし…。その時誰かが「Go practice!」と言ってくれていたらなあ。でも一人では音とれないし練習できなかったんですよね…。Youtubeがある時代に生まれたかった…。志のある人はレッスンを録音したり、録画するのでしょうか?
音楽自体は好きだったので、中学では音程とは無縁のパーカッションのパートを選びました(←ティンパニのチューニングで絶対必須なことに後で気づきました)。鍵盤楽器は苦手でした。今思えば、この時「数える」ことを徹底的に学びました。あと右手を鍛えられたのもバイオリンを弾くために良かったのではないかと思います。
高校では「音楽はもういいや」と美術部に入り、選択科目も美術、一時は美術の道を夢見たりもしました。高3になってから現実を知り、美術系大学の倍率の高さと試験の採点の不透明さに絶望し、進路に迷いました。美大は試験内容的には好きでしたが、絵に対するパッションが他の受験生は自分とは比べ物にならないことに気付いたのと、結局芸術は実力はもちろんのこととして、他にお金とコネクションがモノを言うような世界なんだということに気付き、諦めました。そして、「自分は勉強していない割には比較的国語が得意らしい」ということに気づいてからは、(単純過ぎますが)文学部を目指すようになりました。中2病の延長で日本の明治・大正文学が好きだったことも大きかったです。しかし、高3から始めた受験勉強では箸にも棒にも引っかからず、真面目に一浪して東京の第一志望校へ進学しました。この時の経験が、後に教職を志すきっかけになります。
大学では、何を思ったのかオーケストラサークルに入り、再び一からバイオリンをやり直すことに決めました。ここでようやく戻ってきたのです。バイオリンを辞めてから10年経っていました。私はフルサイズバイオリンに上がる前にやめてしまったので、我が家には先生経由で買った四分の三のサイズのオールドのバイオリンがまだ置いてありました。そこそこ良いお値段だったことから、これを先生に下取りをしてもらい、追加でいくらか払ってフルサイズの楽器を買おうということになり、大学1年の夏に再び先生の元を訪れることになったのです(それまでサークルの先輩の予備楽器を借りていました)。
先生は全くお変わりなく、にこやかに私達親子を迎えてくださいました。先生に「厳しい」というイメージがあり緊張していた私は、こんなに普通に話せる先生だったのかと、何だか拍子抜けしてしまいました。○○大学の文学部に通って、オーケストラサークルに入りましたと伝えると、自分のことのように喜んでくださいました。そして、こんな話をしてくださったのです。
私が小学2年生の時(先生は正確に覚えていらっしゃいました)、スズキの教本4巻、ザイツの協奏曲第5番第3楽章の中間部で短調になるところがあるのですが、「ここはどんな感じがする?」という先生の質問に、私が「夜中に公園でブランコが一つだけ揺れているような感じ」と答えたのだそうです。その時先生は本当にびっくりされたそうです。「小学2年生でそんなことを言うだろうかと思ったの」と。たいていの生徒さんは「悲しい感じ」とか「寂しい感じ」といった回答なのだそうです。だから、「この子には文才がある」と思ったのだそうです。今回文学部へ進んだときいて「やっぱり!」と感じたと、とても嬉しそうに話してくださいました。
その話をきいて、当時の私自身は正直、「そこまで言ってもらえるほどの才能は感じられない…普通の回答だと思うけれど…」と思ったものの、先生が出来の悪い生徒の私のことをそれだけはっきりと覚えていて下さったということは、そういう表現をした生徒は後にも先にもいなかったということなのでしょう。もしくは、全く音感も音楽的センスの欠片もない生徒からそのような表現が出てくるとは思わず、それでびっくりしたのか…。
言われて何となく思い出しました。先生は、私の言った言葉を楽譜に大きく書いてくださいました(実家に残っていました)。そして「ではそのように弾いてみてごらん」と、おっしゃったと思います。
先生は、本当にどうしようもない劣等生だった私を、音楽とは全く違う能力の面で、認めて下さっていたのです。そしてそれを、10年近くも覚えていて下さったのです。その事実に、胸が熱くなりました。そして、私の生きる道は音楽ではなくて、何か日本語に、言葉に、関わることだと教えて頂いた気がします。
私にとって、恩師と呼べる先生は3人います。そのうちの一人は、間違いなくこのバイオリンの先生です。薫陶を受けた期間は決して長くはありませんでしたが、今もこうやって音楽やバイオリンを楽しむ人生を送れているのは間違いなく先生のおかげです。そして私の娘にも、先生から教わったものは受け継がれています…。出来の悪い生徒で本当に申し訳ありませんでした。根気強く、教えてくださってありがとうございました。
※「バイオリンはじめちゃんねる」最新動画。「かな先生」が7歳でヴェラチーニの「ジーグ」を弾いています(爆速!)。私が辞める前に最後にちゃんと弾いた記憶のあるソロ曲がこれでした…。バッハのドッペルは挫折して結局通して弾いた覚えがありません…。(大人になってから最近練習してようやく弾けるようになりました)
TwoSetの昔の動画カワイイ(笑)
トップソリストの幼少時代…
かてぃんさんの7歳と今
かてぃんさんの10歳と今(←ショパン・コンクール)…(大感動)
バイオリン関係の個人的に気になるインスタグラマーさん、 ユーチューバーさん達と、私の恩師の話【前編】
子どもの英語・日本語教育に興味を持ってこのブログを覗きにいらしてくださった方は、毎度何のことかとお思いかもしれません…。TwoSet Violin は、私自身の英語と音楽の勉強を兼ねた娯楽として観ている、台湾出身オーストラリア人ユーチューバーのバイオリンデュオです。
今回は、そんなTwoSetにうっすらと関連した日本人バイオリニストさん達や、子どもの音楽、英語教育から私の恩師の話まで、最近思ったことを書いてみたいと思います。うまく着地できるかわかりませんが、いってみましょう。
出会いました!
まず本題に入る前に、最近幸せな出会いがありました。なんと、このブログ以上に激熱な日本人Twosetterインスタグラマーさんを発見致しました!早速フォローさせていただき、本ブログでの紹介にご了承いただきましたので、ここでご紹介させていただきます。
日本在住の @yama.2set さんです!
何と flute gang とのこと。世界的に見ても希少な日本人Twosetter インスタグラマーとして、TwoSet愛に溢れた投稿をされています。素晴らしいセンスと動画・画像編集スキルで、時間を忘れてずっと眺めてしまうアカウントです。
ちなみに、私もバイオリン・TwoSet 関係専用アカウントをひっそりと作りました。あくまで主体はこのブログのつもりですが、更新のお知らせなどもできるかなと思います(ストーリーとか使い方がイマイチまだよくわかっていないのですが…)。こちらのアカウントでフォローさせていただいています。まだ投稿が全然無いのですが、バイオリン関係に興味がおありの方は、もしよかったらフォロー&交流してください。→ @nicota.vn
日本人版TwoSet Violin!?「バイオリンはじめちゃんねる」
こちらのチャンネル、オススメに出てきたので観てみたらハマりました。日本の東京近郊でバイオリン教室をされている女性のお二人の先生のチャンネルです。
こう書くと、よくありがちな感じがしますが、このチャンネルは全く予想を覆す内容でした!それはまさに、日本人版TwoSet Violinの名に相応しいと思います。チャンネル開設当初は、そのチャンネル名の通りに、「バイオリンをはじめました!」という方や生徒さん向けの、スズキ教本の練習用動画をアップしていたようです。(10巻まで一曲一曲丁寧な解説練習動画があり、娘にも見せています)
ところが、だんだんと先生方のキャラが浮き立ってきて、コントあり、ゲームあり、ロケあり、二人で一つのバイオリン演奏あり、リン・リン・ワークアウトな内容あり…のTwoSet的楽しい動画へとシフトしてきています。それだけでなく、黒服コーデや本番メイク等日本人女性ならではの視点からの独自のコンテンツもあり、肩当てや、かなり本気の松脂比較動画もあり、オリジナリティも光っています。今度2月13日(日本時間)に焼肉を食べるライブ配信があるようです(笑)。
このチャンネルには、共に桐朋学園大学(弦楽器に強い私立最高峰のイメージ)卒業のバイオリンの先生お二人が主に出演。先輩姉御肌「かな先生」と、そのかな先生から「ばんちゃん」と呼ばれている「まなみ先生」の、和気藹々とした先輩後輩関係に心がほっと癒されるチャンネルとなっています。
2021年にこちらの動画がバズって、人気チャンネルになったようです↓
上の動画の超丁寧な解説動画↓
アナウンサーのように綺麗な発声とお顔で理路整然としゃべくりまくる「かな先生」。けっこう真顔でぶっちゃけてくれるところが、友達の話を聞いているみたいで楽しいです。一方、徳島出身でほんわか柔らかい雰囲気なのに、コンチェルトなどはパワー系の演奏になるギャップがすごい「まなみ先生」は、編集も担当されていて、これがまたクスリと笑えるエッセンスを加えてくださっています。
個人的にかな先生が大好きになった動画↓
さて、TwoSetとの関連はというと、先生たちが直接言及していることはないようなのですが(全部動画観たわけじゃないので触れられていたらすみません、でもコメント欄で好意的に指摘している人を何人か発見しました!)、かな先生が、日本でバッタリRay Chenに会って撮ったツーショット写真も公開してくださっているのです(品川のシーフード・リパブリックの近くですね)。Rayさんの動画を意識しているとすれば、TwoSet も知らないはずはない…。ていうか、「うちらの方が絶対上手いし面白い動画作れそうじゃない!?」て言ってYouTube 始めてそう(ただの妄想です)。私はこのチャンネル好きです、応援してます!頑張ってください!
それにしても、かな先生、お肌はきれいだし、お若そうに見える割にこの落ち着き方、酸いも甘いも噛み分けている感じ…でも友達と話しているような感覚…ひょっとして同い年くらいかも?と思ったら…先生の方がちょっと、いやだいぶ、お若かったです。。。
そして、このチャンネルを知ったのとほぼ同じ頃に、ほぼ同世代の、あるバイオリニストのインスタグラマーさんを知ることになるのです。それが、徳永慶子さんです。
第62回(2019年度)グラミー賞受賞 徳永慶子さん
徳永慶子さんは、日本の高校を中退して単身渡米、プリカリッジを経てジュリアード音楽院を卒業し、そこで教鞭も執られていたようです。ジュリアード在学中から参加していたカルテット「Attacca Quartet」のアルバムが第62回(2019年度)グラミー賞最優秀室内楽賞受賞。日本人バイオリニスト初のグラミー賞受賞となったということです。(ちなみに五嶋みどりさんの参加アルバムが2014年に受賞していますが、みどりさんはアメリカ国籍なので「日本人」ではないそうです。そうだったんだ…!)
慶子さんの特筆すべきは、その生い立ちを、何とご自身が漫画にしてインスタグラムに投稿されていることで、現在もまだ継続中です(「ヴァイオリニストができるまで」@keikonomanga )。 現在、やっと小学校高学年になったところなのですが、かわいらしくて素朴な画風によってだいぶ受け止めやすくはなっていますが、描かれている現実はけっこう厳しくて残酷で、何というか…かなりぶっちゃけてるな…と思いました。恐ろしい世界への怖いもの見たさゆえに一気読みしてしまったのですが、コメントでも「わかる!」というものが多くて驚愕しました…。すごい世界です本当に。慶子さんご自身も「神童」レベルでずっとこられたのだと思いますが、日本国内でのコンクールでは結果が出ず、日本を飛び出したのだそうです(英断ですね!)
この漫画を拝見していて、「この方も同世代かもしれない」と思ったら、私より若干お若いくらいでした。そして、おそらく前述の「かな先生」とも近いお年です。そしてお二方とも神奈川県出身。慶子さんは桐朋学園大学音楽学部附属「子どものための音楽教室」に通っていらしたとのことです。「かな先生」は小6で先生を変えるまでスズキメソードの教室へ通われていたそうです(その時点で10巻とメンコン、シャコンヌまで終了していたとのこと)。お二人がコンクールなどで顔を合わせていたということもあるのだろうか…と勝手に想像してしまいました。
この桐朋学園大学音楽学部附属「子どものための音楽教室」は、関東近辺のみならず、全国に教室があります。音楽関係にはとんと疎い私自身は、最近まで全く知らなかったのですが、メニューイン・コンクールのことを調べた時に知りました。
「スズキ・メソード」が、音楽家を育てることのみを目標にしておらず、むしろ子どもの本来の能力を引き出す「全人教育」を謳っているのに対し、こちらの「子どものための音楽教室」は、より音楽家の育成に焦点を当てている感じがします。「全日本学生コンクール」上位入賞者を毎年多数輩出しているようです。
2021年のメニューインに日本から出場した金子芽以さんはこの「子どものための音楽教室」に通われているとプロフィールにありました。「全日本学生コンクール」2021年度の高校生の部で1位を獲っていました。国内では敵無しなんでしょうね!(ちなみに小学生の部では、もはやTwoSetファミリーの富樫音葉さんが1位だったようです!)
さて、慶子さんが挑戦し、入賞できずにいたと描かれているのが、この「全日本学生コンクール」です。予選は通過しても、入賞はならず、その後もさまざまなコンクールに出ては、なかなか芳しい結果を得られなかったそうです。漫画では、師事する先生の勧めで海外の国際コンクールへ出ることになったところまで現時点では描かれています。今後の展開が気になります…!(子どもの頃に国内で評価されずに日本を飛び出し、大器晩成型に日本人初のグラミー賞受賞バイオリニストになるというこのドラマに胸が熱くなりますね)
コンクールといえば、日本国内最高峰として数えられるのは「日本音楽コンクール」です。
実は、私はこのコンクールで優勝した経歴がある方を知っていました。というか、最近気がつきました。その方というのは、私がバイオリンを習っていた先生のお子さんです。そのお子さん、おそらく先述のお二方とほぼ同世代。おそらく徳永慶子さんと同い年?と思われます。
私の恩師のお子さん
そのお子さんは私と同じ地方都市のベッドタウンである市内に住んでいました。当時、「良い先生が引っ越していらっしゃった」ということで、市外まで通っていたスズキメソードの先生をやめ、お世話になることになりました(母が勝手に決めました)。
お子さんは、ご自宅でのレッスンの時に見かけることはごくたまにしかなかったのですが、通っているスイミングスクールが同じで、そこでよく見かけていました。少し年下だけど級も上だし、先生にもかわいがられている活発なお子さん、という印象でした。
そのお子さんが進学したのが、桐朋学園大学音楽学部です。かな先生の少し先輩に当たるんじゃないかと思います。そこで四年次に日本音楽コンクールに優勝したのです。首席卒業もしたそうなので、かな先生なら絶対ご存知に違いない…。かな先生が「オゾン層」と呼んでいた人達の一人なんじゃないかと思っています。
なんだか自分の人生がこんなところでつながってくるなんて…(私自身とは何もつながっていないのですが)、年齢を重ねていくって面白いなと思いました。
そのお子さんは、桐朋を卒業後ヨーロッパ留学され、今や藝大で教鞭を執られたり、日本各地でご活躍中のようですが、一応私の出身地などがわかってしまうので伏せておきますね。(だからどうということもないのですが…)
そのお子さんを育て上げられたお母様、私のバイオリンの恩師について、ぜひ書いておきたいことがあるのですが、長くなってしまったので記事を分けたいと思います。
(続く…)