国語の教員でしたが、アメリカで子育てをして、日本に帰国しました。

高校の国語科教員を退職し、長女が1歳の時に渡米し、2022年に帰国しました。3人目も無事出産しました。

二人目が生まれる前に、娘への愛を叫ぶ

娘、2歳半です。

「魔の2歳児」という言葉を妊娠中からよく目にしていたので、出産してからも、どんなものなのだろうかと思っていました。今回は、まさに魔の2歳児ど真ん中である我が子が、いかに可愛いか、という内容です。親バカです。

 

妊娠中に一番心配だったのが、我が子をかわいがれなかったらどうしよう、ということでした。これは結構本気で悩んでいました。お腹の中にいる間は何も言わないし動き回らないけれど、これが外に出た瞬間から泣いたり、少し経てば動き回るようになる、ということが妙に恐ろしく感じられたのです。あと、私は自分の容姿が好きではないので、自分に似てしまったらかわいがれないのではないか、というのも心配でした。

生まれてみると、全く自分に似ておらず、色素が薄くてはじめは金髪だったし、色白でとてもかわいい女の子です。おまけに小さかったです。小さく生まれたので、赤ちゃんの頃の間は、他の子より3ヶ月くらい大きくなるのが遅い感じでした。だから、新生児サイズの期間が長かったです。

泣くには泣くけれど、何もできないし、本当にか弱い赤ちゃん。自分は母親、というよりも、お世話係一号だ、というくらいの責任感と義務感でお世話をしていました。天からの授かりものを、畏れ多くもお育てする、という使命を実行するために、自分は存在しているのだとその時本気で悟りました。

古語の「かしづく」には、「大切に守り育てる」という意味もあるのですが、それがようやく分かりました。確かに、子どもにはかしずいているとしかいいようがない面があります。

もう、これは『竹取物語』の嫗の気持ちです。娘はいつか月に帰ってしまうのではないか、と不安になる時もありました(今でもたまにそう思います)。

 

この時点でかなり溺愛しているのですが、まだ言葉を話していないからかわいいのではないか、と内心疑っていました。意味のある言葉をしゃべり始めると、女の子は生意気だとか、一人前のことを言うとかで、かわいく感じられなくなるかもしれない、と不安に思っていました。

自分が単なるお世話係から、「母親」になったのだなあ、と実感するようになったのは、娘が1歳3ヶ月になり、「おかあさん」と呼んでくれるようになってからです。実際の発音は、「おかあちゃん」です。

実際、しゃべり始めたら、かわいいのなんの。

まず、声がかわいいのです。こんなに子どもの声ってかわいかったかなと思うくらい、何度聞いてもかわいいです。歌を歌うようになると、それがまたかわいい。

それから、発音がかわいい。「さしすせそ」が、「ちゃちちゅちぇちょ」になるので、何をしゃべってもかわいいのです。私達夫婦は、子どもが生まれても「赤ちゃん言葉」が出ることはなかったのですが、娘が舌足らずなしゃべり方をするようになると、かわいいのでつい真似したくなってしまいます。娘がその場にいない時も、二人でよく娘のモノマネをしています。

最近は、「ちゃ」が「つぁ」になってきました。なぜか。「おとうちゃん」が「おとうつぁん」になります(「おかあちゃん」も然り)。このままいくと、「おとっつぁん」になる日も近いかもしれません。

これだけで、もうしゃべっている内容が何であってもかわいいのです。文字にしてみるとかわいげがないことでも、実際に娘が発していると、かわいいとしか言いようがありません。毎日私は「かわいいなあ」を連発しています。娘は特に喜んでいる節はありませんが。

 

そして、動きがかわいいです。短い手足で走ったり踊ったりよじ登ったり…もう何をしていてもかわいいのです。2歳って、だいぶ大きくなるし、赤ちゃんのようなかわいさはなくなるよなあ、と思っていたのですが、やっぱりその時その時のかわいさというのがあるものです。それにしても、ここまで2年半子育てをしてきて、何だか、今この時期が一番、妊娠前から想像していた「小さい子どものいる生活」だなあ、としみじみ思います。

「子どもは3歳までに一生分の親孝行をする」という言葉をどこかで聞いたことがあるのですが、この先、どんな風に子どもが成長していっても、これまでの娘のかわいさを胸に頑張ろう、と思えます。逆に、子どもが小さい頃の記憶があるからこそ、親はこの先のティーンネイジャー育児を乗り切れるのではないか(もしくは子離れできないという事態も起こってくる)と思いました。私はこれまで10代の子ども達ばかり見てきたので、子どもというものへの見方が偏っていたように思います。

自分ではその気は全く無かったのですが、今思えば、これまでの私の子どもの見方は「性悪説」的でした。子どもなんて、言うこときかない、ききたくないのが当たり前で、少しでも楽をしようとするし、後先考えずに自分のしたいことを優先するし、他人の迷惑を考える余裕もない。他人の目がなかったり、集団になるとそれは顕著で、そういうものであるということが前提でそこから考えていつも教員という仕事をしてきました。まあ実際、そうする必要があるからそうなっていったのですが。

しかし、我が子を生まれた時から見ていると、やはり「性善説」、人は生まれながらにして「善」である、と思わざるを得ません。もう、善の塊。幸せの塊。毎日一緒にいてくれてありがとう、という気持ちしかありません。

 

ただし、甘やかしているというのではないつもりです。あいさつや歯磨きなど、しつけや安全・健康に関わることは、言うことを変えないようにして、毅然とした態度で臨んでいます。最近、歯磨きは毎日バトルですね…。本当に頑固な時は頑固な子です。以前は自分で磨きたがって、仕上げ磨きをさせてくれませんでしたが、最近は磨くこと自体を拒否しているので、無理やり仕上げ磨きをせざるを得ない状況です…。

でも、歯磨きが終わると上機嫌で歌い出したり、人形遊びの時に母親と同じことを言って人形に歯磨きしてあげたりと、心には届いているのかな…?と思います。もう少しだと思って頑張ります。

 

二歳半近くになってから、娘のパーソナリティーに急に変化が出てきました。何だか、しゃべり方が、「お調子者」なのです。それどこで覚えてきたの…?というしゃべり方を、保育園に行く前からし始めました。テレビもそれほど観ていないのに…。あと、変顔も得意です。夫婦で、お互いに、相手に似たんだねと言い合っています。

 

第二子妊娠中ですが、特に母親に対する執着が高まったりはしていません。これは少し寂しいですが、助かっていることでもあります。元々お父さん大好きっ子(に仕立てるつもりで子育てしていた)なので、良かったです。

 

現在一番の心配事は、次に生まれてくる子を、長女のようにかわいがることができるのか、ということです。自分自身が次女なので、第二子の扱いに関しては色々思うところがあります。自分の子どもには悲しい思いをさせたくない、とは思うものの、これだけ長女となる娘を溺愛している中で、第二子となる次女を平等に扱えるのだろうか…という不安が常にあります。今はただ、「自分に似ませんように」と祈るばかりです。

とはいえ、自分に似ていたらそれはそれでかわいく思えるかもしれないし、長女を妊娠中に感じていた時と同じように、その心配は杞憂に終わることになるのかもしれません。